ゴリラは人間か?と聞かれたら、「んなわけない」と即答します。では、人間の定義は?と聞かれると、よくわかりません。
もし「ゴリラも人間です」となったら、たぶんものすごく抵抗感があるでしょう。
動物の命も大事だけれど、やはり人間の命の方が大事だと思ってしまう。
ゴリラも人間=ゴリラの命も人間と同等、と言われたら。無理。
だから、ゴリラの定義は?人間の定義は?となるのだけど、難しい問題です。
「ゴリラ裁判の日」あらすじ
人間の言葉を理解し、会話もできるローズは、カメルーンからアメリカの動物園にやってきます。
ゴリラの群れは一夫多妻制ですが、雄ゴリラのオマリともうまくいっていて、いずれは子供も授かるかも…と思っていた矢先、子供がゴリラの柵に落ちてしまったことから、子供を救うためにオマリは射殺されてしまいました。
ローズは動物園を相手取り、「夫」を殺したことに対する裁判を起こしますが…。
「ゴリラ裁判の日」を読んだ感想(ネタバレ含みます)
ゴリラが人間相手に裁判を起こすという前代未聞の事態に、世間は沸き立ちますが、最初から勝ち目のない裁判でした。
おそらく、どんな理由があっても、百歩譲って人間側の「過ち」があったとしても、ゴリラ(動物)と人間の命には差があります。
でも、ゴリラが人間と同じだとされたなら。
最初の裁判では、ローズは動物園と園長に勝てなかった。ここでひとつ加えておくと、延長は悪い人ではありません。
アメリカにやってきたローズを親身になって世話し、丁寧に接してくれた人です。
それに、小さな子供がオスの大人のゴリラに掴まれている状況で、射殺以外の選択肢はなかったはず。園長の判断が間違っていたとも思えません。
私も勘違いしていたのですが、最初は「麻酔銃撃てばいいじゃん」と思っていました。
何も殺さなくても、麻酔で眠らせればいいのにと。
しかし、麻酔銃を撃ったとして、瞬時に効くわけではないのですね。運良く命中したとして、麻酔が効くまでに時間がかかる。だから、園側としては実弾を使うしかなかった、それは十分理解できることです。
ですから、この裁判をどう覆すのかが最大の焦点となるわけですが、新しくローズの弁護士となったダニエルは、単に「オマリを射殺したことに対して動物園側に責任があった」と認めさせるのではなかった。それではまた前回と同じように、気の毒だけれど人の命には代えられなかった、ということになってしまう。
では、どうやって裁判に勝とうとしたのか?
それは、「ローズの人権を認めさせること」でした。
だから、人間の定義とは何か?が出てくるのです。
類人猿学者を証人として呼び、「人間と動物の違いは、種全体として複雑な言語体系を持つか否かにある」という見解を彼の口から引き出します。
つまり、言葉が喋れるか、理解できるかということ。
その違いしかないのであれば、人間の言葉を理解し、また、自分でも喋ることができるローズはゴリラではなく人間だということになってしまう!
しかも、ローズだけでなく、まだ話せないゴリラたちも人間になってしまう。なぜならば、ローズのいた研究所の研究によって、ゴリラが言語を習得できることがわかっているから。
喋ることができない人がいても、それは人間ですよね。喋れないから動物だ、ということにはならない。
それと同じで、今は喋れなくても学べば言語を習得できるのであれば、ローズ以外のゴリラもみな人間と同じ、という理論。というか詭弁。
詭弁だろうがなんだろうが、成り立ってしまえばこっちのものと弁護士のダニエルは考えていたのでしょうか。
結果として、ローズは裁判に勝ちます。陪審員は動物園側の責任を認め、賠償金を支払うよう命じました。
そうきたのか〜〜〜、頭をガツンとやられた感じでした。
しゃべれるゴリラ=人間、という戦法できたとは。
相手の弁護士がダニエルの理論を崩せなかったので、結果的にローズが勝つのですが、でもやはり割り切れないものが残りました。
私は、種族を分けるポイントは「外見」「姿形」だと思っています。専門的な理論はよく知りません。でも、もし飼い猫が私と同じように話して、考えて、自分で自分の世話をできるような存在なったとしても、家族の一員であるし、人間と同じように接すると思うけれど、でも「猫」だと思います。
ローズは人間としての権利を認められたけれど、人間として生きていくことは選択せずに、故郷のジャングルへ帰って行きます。
この小説のテーマはすごく難しいものだなと思いましたが、人間てそもそもなんだ?ということを考える、いいきっかけになったと感じました。
私って何?私ってどういう存在?
改めて考えてみると、わからないことだらけです。